更新履歴、拍手の返信、時に明星について鬱陶しいほど語ってみる
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
皆さんこんばんは。戴宗誕用の中編(……あれ? この長さって、本館じゃ普通に短編?)を書き上げて再び肩の荷が降り、ネットに上がってきたら大絶賛ストーキング中の某小説サイト様で原典・北方を含めた水滸語り(解説?)を発見してどうしようもないくらいにテンションが上がっているアホの簾屋です。
字名って何ぞやとか関羽様の「雲長」は「字」であってあだ名と同義で使われていた「字名」ではなかろーよとか、そもそも「関羽雲長」って表現は間違いなんだって田中芳樹先生が言ってたぞとか、通常の明星ファンの方には極めて興味の薄そうな話を前々からしたかったんですが、某様のところでやられてしまったので割愛です。
そういうわけで、簾屋式オリジナル水滸の話もお休みし、今日はこの話。
ある本を読んでいたら解明の糸口を掴んだ、星の名前のお話です。
続きを読んでやろうじゃないか、と思われた方、まずはこちらをお読みになってから下記をクリック。
字名って何ぞやとか関羽様の「雲長」は「字」であってあだ名と同義で使われていた「字名」ではなかろーよとか、そもそも「関羽雲長」って表現は間違いなんだって田中芳樹先生が言ってたぞとか、通常の明星ファンの方には極めて興味の薄そうな話を前々からしたかったんですが、某様のところでやられてしまったので割愛です。
そういうわけで、簾屋式オリジナル水滸の話もお休みし、今日はこの話。
ある本を読んでいたら解明の糸口を掴んだ、星の名前のお話です。
続きを読んでやろうじゃないか、と思われた方、まずはこちらをお読みになってから下記をクリック。
きっかけは、杉本苑子作『悲華水滸伝』を読んでいる時でした。
中巻、百八人が出揃って、星の名前とあだ名と名前のリストが登場したところで、簾屋、「おんやぁ?」と思いました。
地サツ星の項目に入って三ページ目に、この記載。
『地闔星 火眼狻猊・鄧飛』
この時簾屋が思い出したのは、明星三巻で丘小乙たちから星が飛んでいくシーン。
上記リンクの記事で「門構えの漢字が使われる星は~」と言っていましたが、鄧飛の星が地闘星であるから、解読できなかった星は地闘星であると簾屋は一応結論づけました。
しかし、実際問題として、簾屋はあの字が「闘」にはとても読めなかったんです。
それよりももっと「この字だろう」と考えたのが、実は「闔」でした。
というのも、実は原典封神演義の九十九回に三百六十五の魂魄を神に封じるシーンがあり、そこに出てくる神様リスト(封神榜)に天ゴウ地サツ一〇八星があるのです。その中に、地闔星があるのでした。
さて、これはどういう事か。簾屋は一つの仮説を立て、それを実証すべく――手に取ったのは、岩波文庫の百回本。職場で! 何やってんの簾屋、という突っ込みはノーサンキュー!
それで、判明しました。
百二十回本と百回本では、百八星の名前が一部違うんです。
ちゃんとメモりました。職場で! 何やってんの簾屋という突っ込みは再び無視して、ここに全部書きます。
(凡例…キャラ名:百二十回本での星‐百回本での星)
公孫勝:天間星‐天閑星
張横:天平星‐天竟星
欧鵬:地闊星‐地濶星
鄧飛:地闘星‐地闔星
扈三娘:地急星‐地慧星
孔明:地好星‐地猖星
曹正:地稽星‐地嵆星
何故百回本と百二十回本とで違うか。これは多分、水滸伝という物語が元々講談から生まれたものだからではないでしょうか? 『宣和遺事』などの種本では「尺八腿」という渾名だった劉唐が水滸伝では(おそらく中国語としての発音が似ているだろう)「赤髪鬼」になったのと同じように、変わっている部分の漢字も発音が似ているか、あるいは意味が似ているのでしょう。
では、次に気になるのが、「じゃあ天野洋一はどの版を元に明星をやろうとしていたか」。
この一つの判断材料となるのが、天山勇と愉快な仲間たちの一人、寇烕。
このキャラ、百二十回本だけのキャラです。何故か? 登場するのが王慶戦だから。田虎・王慶戦がなく、遼征伐と方臘討伐のみの百回本には、名前も気配もありません。
しかし鄧飛は地闔星。百二十回本にも出てくるキャラがありながら、魔星の名前は百回本。これ如何に。
くどくどしいのはやめて、結論を言いましょう。
天野洋一は、ストーリーそのものは百回本をベースにして、不足するだろう強敵キャラを百二十回本にしかいないキャラで行おうとした。
いや、案外七十回本ベースかもしれないけれど。
簾屋、七十回本はまだ読んでいないので、これが現状での結論。こういうアレンジを考えていたのかなー、と思うと、他のアレンジも気になってくる。水滸ファンには「役に立たないもの」の代表格として上げられながら、前述の『悲華水滸伝』では結構重要な役割を持つ天書をどうするつもりだったのか、とか、そもそも九天玄女は出てくるのか、とか、北方水滸の影響が随所に見られた(替天行道の活動理念や、安道全・薛永の医療コンビ)けれどどこまで引きずるつもりだったのか、とか、張清の嫁の瓊英はどうするつもりだったのか、とか、実は結構好きで思わず簾屋式オリジナル水滸でいい立ち位置を与えてしまった喬道清はどうするつもりだったのか、とか。
全くの余談ですが、『悲華~』は百回本ベースです。腐臭というか耽美臭が漂いますが、面白いです。
北方水滸は、百二十回本ベースです。
簾屋式オリジナル水滸は、百二十回本をベースにやりたいところです。上述の通り、喬道清など田虎・王慶戦にしか出てこないキャラを出さないといけないストーリーラインにしてしまったので。
それにしても、今回の日記は環境依存文字だらけになってしまった……。
今時のブラウザならちゃんと表示されるだろうけれど、携帯で見ると「?」に置き換わってるのよね、これ。
それとも今時のスマートフォンとかなら環境依存文字もちゃんと表示されるのかしら?
そしてコアすぎるにもほどがある話題だなぁ。すげぇ自分。
でもこれ、気付いた時すごく興奮したの。ご意見ご感想、お待ちしております。
PR
この記事にコメントする